
こんにちは、紗衣こと“さっちゃん“です😉❣️
これまでの記事では、「人に優しくできないと感じる自分」と向き合ってきました。
今回は、もっと奥にある、それでも“与えたい”と願う気持ちの正体について書いてみたいと思います。
「与えられなかった私」から始まる旅
私はずっと、「誰か助けて」と心の中で叫んでいたのに、
その声は、誰にも届かなかったように感じています。
母親がそばにいない。
頼れる人も、弱音を吐ける場所もない。
だから私は、自分でなんとかするしかなかった。
しかしながら、いざ自分が強くなれた時に
「じゃあ今度こそ、私が誰かを助けられる人になりたい」
「誰かが孤独で泣いている時、少しでも力になってあげたい」
…そんな気持ちが、知らず知らずのうちに私の中に育っていたように思うんです。
与えたい気持ちの奥にある“本音”
でも、私は気づきました。
“与えたい”っていう気持ちには、もうひとつの本音が隠れていました。
「私も、助けてほしかった」
「私も、与えられたかった」
「私も、無条件に抱きしめられたかった」
そう、本当は与えられたことがないから、与えたいと思う。
その願いの根っこには、誰よりも「もらえなかったこと」の痛みがある。
その痛みがあるからこそ、誰かの痛みに気づける。
そして、それを越えて人に与えたいと願えるのだと、今は思っています。
■ 「与えたい」は、愛のかたちであり、祈りみたいなもの
誰かに何かを与えるって、
実はとても勇気のいること。
拒まれるかもしれない。
届かないかもしれない。
時には、搾取されたように感じることもある。
それでも、
「それでも、与えたい」って思う気持ちが芽ばえたとき、
私は思うのです。
それはきっと、
自分の中の“愛”を信じてみようとする祈り。
見返りなんて考えてもいなくて。
ただ、こうありたいと思う自分を叶えたいだけ。
「私はこんなふうに生きたい」
「こんな私になれたら、幸せだと思う」
そういう未来の自分を選ぶ行為でもあるのかもしれません。
おわりに:誰にも与えられなかった私だからこそ
「誰にも助けてもらえなかった」と感じる孤独。
それはきっと、もう一人の誰かがどこかで感じている痛みとつながってる。
だから私は、
同じような思いを抱えている“誰か”の小さな助けになれたらと、
今こうして言葉を綴っています。
そしてこの言葉が、未来の私自身にとっての灯りになりますように。
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▶️次回④では、「人とのつながりに悲しみを感じてしまう私」が、愛されるってどういうことかを見つめた話を書いてみたいと思います。
またぜひ、読みに来てくださいね☕️
ここまで読んでくださってありがとうございました😊紗衣
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